昨日の日記で「よつばと!」の事を「何か澄み切った青空のような・・・」と書きました。
作品自体がなんか青空のように澄み切っているように感じたので、こう書きましたが、しかし、それを人間にするなら、澄み切った心を持つ人間はいるのかという事です。
簡単に言えば、「純粋で、綺麗な心を持ち、邪悪な物など何も持っていない人間」の事を言いますが、果たしてくいう人間はこの世の中にいるのでしょうか。
そもそも純粋であり続けることが難しいと思う。まだ若いうちは純粋な心を持っているが、しかし、年を取るにつれて、組織とかに自我を埋没させて行き、世の中を見る目も違ってくる。
大人になる事によって、この純粋な心は失われてしまうのではないかと思う。もちろん、その純粋な心を持った大人だっている。
ハイロウズ甲本ヒロトがいい例である。彼はライブとかを純粋に楽しみ、毎回のライブで奇妙なダンスを踊るのも、音楽が楽しいから、ライブが楽しいから踊っているのだからではないだろうか。
彼は商業的なハイロウズの話をすると、途端に口数が減るが、しかし、ロックンロールの話をすると、いつまでもいつまでもそのロックについての話をする。話をしている時のヒロトの顔はとても笑顔だという。
彼のその純粋な所があるから、「千年メダル」とか「ラブレター」などのナンバーが書けたのかもしれない。
今、古いナンバーをカバーするアーティストが多いが、いくらブルハやハイロウズの作品はカバーできようが、彼の純粋な気持ちまではカバーできないだろう。
純粋な気持ちまでカバーできなければ、カバー作品でもオリジナルを超える事はかなり難しい。
マーシーのならまだしも、ヒロトの純粋な気持ちで作られたナンバーをカバーして、オリジナルを超える事は、彼以上の純粋な気持ちが無い限りは難しいと思う。(マーシーでも難しいと思いますが)
それくらい、いつの年になっても純粋であり続ける事は難しいと思う。
邪悪な物を持たない人間などこの世には全く存在しない。中にはどこかの凶悪犯みたいに道頓堀川綾瀬川くらいにめちゃくちゃ汚れた心を持つ人間も少なくない。
せいぜいキリスト教のシスターみたいな感じがいいのだが、そこまで北海道の川並みに水質汚染が進んでなく、邪悪な心が無い人はいるのだろうか。
人間は誰でも邪悪な物を少なからずも持っている。うちがこういう日記を書いていても、嫉妬している者もいると思う。
嫉妬や人間関係など邪悪な物は人間としてはどうしても持たなくてはならない物である。
それが少なく、あまり持っていない人間というのはどれくらいいるのだろうか。
それは人間関係も良好で、社会にも十分に適応できている凄い方だと思う。邪悪な物の量が少なければ少ないほど、その人は人間的にも社会的にも凄いと思う。
しかし、このような人間が出来る事はよほど難しく、組織とかに自我を埋没させて行けば、邪悪な物の量は増えていくのかもしれない。
この邪悪な物が後に犯罪へと繋がっていく。量が多ければ多いほど、犯罪へと結びやすく、それが殺人や殺人未遂といった物に繋がっていく。
特に最近の人たちは社会に対して、嫌悪になっているため、社会への復讐などとして、通り魔などの無差別犯罪を起こしている。
この邪悪な物が現代人は昔の人に比べて爆発しやすく、それだけ現代が物騒になっている。
爆発しやすくなったために、日本の治安は悪くなりつつある。さらに今の若者は先の純粋な気持ちを本当に持っているのか微妙なのもいる。
かつては大人がやっていた事でも、今は若者が手を出すこともあり、中学生で薬物の密売人、中学生で援助交際紹介屋など本来は大人がやるべき事を若者いや子供たちがしてる。
金や欲という邪悪な物の勢いが強すぎて、純粋というものを消して、こうさせているのか。
今の若者に純粋な心を持った人たちは少なくなっているのか。金と欲・・・・この2つの物の勢いが強すぎて・・・・・・


何で、今、こういうのを書いているのかというと、これを書いてる時はもう日付が変わって、現在22日の午前1時である。今日でまた年が一つ増えるから、自分の事や世間の事などを考えるつもりで書いていますが、自分も21になって、この日記は自分の率直な気持ちをそのまま押し出して、自分の言いたい事などを書いておりますが、その率直な気持ち、これは自分の感受性の強さから来る物を率直に、純粋に書けるのはいつまでだろうと思ってくる。
自分も21・・・大人か子供か微妙な位置である。未だに子供ぽい所を見せているが、その子供ぽい行動など社会は捨てるように言う。
大人たちは「社会に入ったからには子供ぽい事は捨てろ」と言うが、しかし、その大人の心を持つだけでは決していい人間にはなれないと思う。
オリコンの名物社長だった小池總行さんは自分の社長室に幼児向けの道具を置いていたりした。「童心」・・・子供の心、子供のような心。小池さんは常にそれを持っていたからこそ、あんな人柄になっていたのかもしれない。もし、小池さんがそんな童心が無かったならば、きっとオリコンは・・・・・・
大人になるのもいいが、しかし、全部を大人の心ではいけないと思う。大人とともに子供の二面性を持つ。大人であり、子供のように純真な心の持ち主・・・・これこそが本当の良い人間ではないだろうか。
2ちゃんねるに書き込んでいる人たちや、知識人、あるいはプロ市民や批評家達にはこの心はあるのだろうか。
もちろん批評しなければいけない事もある。しかし、その批評に愛が込められているのだろうか。ブロガー達のお笑いや音楽の批評とか見ても、それは感じられないのが多い。
ましてや知識人やプロ市民など無いのも同然のもいる。
自分みたいにお笑いや音楽、マンガなど単純に楽しければいいだけだ。楽しいから批評しない。
時事はまだしも、競馬に対してはヒドイ場合を除いては愛や期待の意味も込めて批評する。
そうした方が自分はいいと思っている。175Rオレンジレンジがみんなが悪いと思っていても、あの芸人はつまらないと言っていても、楽しければいいだけ。だから言わない。(ただ、先の2組に対してはさすがに・・・・)
あえて言えば俺流のやり方かもしれないが、この気持ちをいつまでキープできるかが自分への課題ではないかと思う。


ブロガーや現代人が忘れようとしている「澄み切った心」。こんなの自分にも無いのは分かっている。しかし、いつまでも純真な心を持って、自分の率直な考えを書いていければと思う。ブロガーにしても、その純真な気持ちを持っているのは何人いるのだろうか。
一度考えてみるべきだと思う。
「自分は純真な心を持っているのか?自分は澄み切った心を持っているのか?」
楽しければいいだけ・・・・・それだけでいいんだ。
大人たちが「子供ぽい所は捨てろ」と言ってるけれど、その子供が持つ純真な心までは捨ててはならないと思う。
自分も21であと数年後に大人になってしまうかもしれない。ただその時にこの純真な気持ちだけはいつまでも持っていたいと思う。
それが無ければ、自分などただのマイナス人間になってしまうかもしれない。
澄み切った心を持つ事・・・・・それが現代人にとって、難しい課題なのかもしれない。ただ、汚れている心を、少しでも浄化していく事が社会をも浄化し、人間的にも良くなる事だと思います。
自分の心がどこまで浄化できるか・・・・・青空までは行かなくても、せめて都心ではなく、田舎の川くらいまでは浄化して行って欲しいと思います。