激動の時代を駆け抜けて

今日、1頭の不死鳥の引退が発表された。
その不死鳥の名前はナムラコクオー
3冠馬ナリタブライアンの同期であり、一時はナリタブライアンのライバルといわれた馬が12年と2ヵ月半の競走馬生活に遂にピリオドを打った。


1993年9月19日 阪神1レース 3歳新馬戦でナムラコクオーはデビューを飾った。
7頭立ての1枠1番と最内枠に入ったナムラコクオーは人気は5番人気と低評価だった。
道中はシアトルフェアーに続いて2番手と好位置からレースを進める。
しかし、最後まで逃げるシアトルフェアーを交わす事が出来ず、デビュー戦は2着でゴールを迎えた。
しかし、5番人気という低評価を覆しての2着は健闘であった。
このレースを見た者は誰もが思ったことか。この2着のナムラコクオーがこの後、長期にわたって波乱万丈の競走生活を送るということを・・・・・・


続く2戦目も好位置からレースを進めるも、やはり逃げるマイティスマイルを交わす事が出来ずまたしても2着。
そして3戦目、ここでナムラコクオーは待望の初勝利を挙げる。
93年10月17日、阪神1レース 3歳未勝利戦、やはり道中は2番手から3番手と好位置からレースを進めたナムラコクオーは直線で先頭に立つと、スナークダンディに1馬身3/4の差を付けて1着。断然人気に応え、3戦目で初勝利を挙げた。
初勝利を挙げたナムラコクオーは続く4戦目のもちの木賞は川崎の名牝ロジータの娘シスターソノの2着に敗れるも、次のレースで1.5倍の断然人気に応え、後続に7馬身の差を付けて圧勝した。この時の3着に入ったのは後にオープンで活躍したガイドブックだった。


ダートで圧勝したナムラコクオーはここで芝に初挑戦をする。そのレースはGⅢの重賞ラジオたんぱ杯3歳ステークス。
ナムラコクオーは前走ダートで圧勝しながらも、初芝という事で16頭立ての6番人気に。
1番人気は後に97マーキュリーカップ(統一GⅢ)などを勝った武豊騎乗のパリスナポレオン。
パリスナポレオンはここまで3戦1勝2着2回と3戦して全て1番人気で連に絡んでいた。
500キロを超える雄大な馬体に「メジロマックイーン級」と評されていた事からこのレースでも単勝1.5倍の断然人気になっていた。
しかし、このレースを制したのは同じここまで全てのレースで連対していたナムラコクオーの方だった。
道中はナムラコクオーは7番手から8番手からレースを進めると、一気に動いて4コーナーで2番手に上がり、そして直線で先頭に立つと、後は後続を突き放し4馬身差の圧勝で初芝を物ともせず、見事に重賞初制覇を飾った。
デビュー戦から手綱をとって来た当時2年目の上村洋行騎手はトシグリーンの92京王杯オータムハンデ(GⅢ)に次いで、2つ目の重賞制覇となった。
そして、ここからナムラコクオーの黄金期が始まるのであった。


ラジオたんぱ杯3歳ステークスを制したナムラコクオーは続くシンザン記念も7馬身差の圧勝で一躍クラシック候補に名乗りを上げた。
そのクラシックの皐月賞のトライアルとなる弥生賞では単勝1番人気に支持されるも、サクラエイコウオーに逃げ切られ、エアチャリオットとの2着争いもハナ差で敗れ、3着とデビュー以来初めて連を外した。
3着で皐月賞への優先出走権を得たナムラコクオーは当然目標は皐月賞へと定められるが、しかし、この後ナムラコクオーの運命を大きく変えてしまう大きなケガを負ってしまう事になる。


皐月賞への調整中に脚に異常が見られた。医師から下された診断は「屈腱炎」。
競走馬にとっては不治の病と呼ばれ、多くの名馬が引退に追い込まれているこの病に罹ってしまったのだ。
このため、皐月賞は当然回避となるが、しかし、意外と症状は軽く、ダービートライアルであるNHK杯へ出走する事となる。*1
本来、出走する予定だった皐月賞は前年の3歳チャンプであるナリタブライアンが他馬を寄せ付けず圧勝した。
NHK杯では脚部不安明けながらもナムラコクオーは1番人気に支持され、その人気に応え、南井克己騎手との初コンビながらも2着のヤシマソブリンに2馬身半の差を付けて快勝。
皐月賞を制したナリタブライアンの2冠を阻止するのはこの馬だ」「ナリタブライアンのライバル」という声が上がった。
そして、本番の第61回日本ダービー。1番人気は皐月賞を制したナリタブライアン単勝は1.2倍と断然人気。再び上村騎手にヤネが戻ったナムラコクオーは2番人気になるも、単勝は8.6倍。ファンはナリタブライアンの2冠制覇に期待を寄せていた。
そして、その期待に応え、ナリタブライアンは直線で一気に突き放し5馬身差の圧勝で2冠を達成した。
ナムラコクオーは距離が堪えたか、ナリタブライアンから1秒9差の6着と敗れた。
さらにダービー後まもなくナムラコクオー屈腱炎を再発。しかも、今度は症状が重く、長期戦線離脱を余儀なくされた。
その長期戦線離脱中に2冠を制したナリタブライアン菊花賞を制し、3冠馬となり、さらに有馬記念も制し、この年の年度代表馬に選ばれた。
3冠を制した時の菊花賞の2着に入ったのがNHK杯で2馬身半の差を付けたヤシマソブリンだった。



時は流れて1996年2月24日 阪神11レース仁川ステークス。
ダート1800メートルのオープン特別にナムラコクオーは1年9ヶ月ぶりに帰って来た。
芝よりも負担の少ないダートでの復帰となったナムラコクオー。元々ラジオたんぱ杯3歳ステークス前はダートを走っていたナムラコクオーは久々ながらも2番人気に支持される。
馬体重はダービーの時より2キロ増の488キロ。
しかし、久々が堪えたか4着でゴールを迎える。このレースを制したのはマルカイッキュウ。アタマ差の2着に入ったのが同期のオースミレパード。前者は後に高知に移籍し、98・99新春杯・高知県知事賞、98建依別賞など高知で重賞6勝、高知から遠征して挑んだ統一GⅢの白山大賞典キョウトシチーの2着に入るなど、高知で一時代を築いた。そして後者は14歳になった今も高知で走り続けている。そして4着のナムラコクオーと高知競馬を沸かした3頭がこのレースに一緒に出ていた。また、このレースで11着に入ったのは13歳になった今も岩手で現役を続けているサンエムキングだった。
復帰したナムラコクオーは続く復帰2戦目にこの年から新設されたGⅢのプロキオンステークスに出走した。
このレースは5番人気でレースを迎えたナムラコクオーは道中はサンエムキングシェイクハンドを見る形で先行し、直線に入った辺りで前の2頭に迫って先頭に立つと、ビッグショウリらの追撃を半馬身退け1着。おととしのNHK杯以来、屈腱炎という重い病を乗り越えて約1年11ヶ月ぶりの勝利を挙げた。
レース後、表彰式で1戦を除きここまでほぼ全部のレースの手綱を取り続けてきた上村洋行騎手は苦楽を味わってきた愛馬の復活に感動したのだろうか、泣きながらインタビューに答えていたという。
ナマイキと言われていた上村騎手が表彰式で泣いている・・・・・・・それだけナムラコクオーの復活を信じ、そして復活し号泣したのだろうか。
しかし、上村騎手がナムラコクオーの手綱を取るのはこれが最後となってしまう・・・・・
感動のプロキオンステークスの後、ナムラコクオー岸滋彦騎手が騎乗するが、いずれも敗れさらに屈腱炎を再発し、96かしわ記念4着を最後に高知に移籍した。


高知に移籍したナムラコクオー。かつてはナリタブライアンのライバルといわれた黒鹿毛の馬は坂本竜馬の地である土佐の国へと流れていった。
堅田忠雄厩舎に入り、調教では高知のリーディングジョッキーである中越豊光騎手が騎乗したが、ナムラコクオーの走りに中越豊光騎手は驚愕したという。
しかし、重い屈腱炎を患っているせいか、最初の97・98年は年に2走しか出来ず、レースに出たら、再発し、治して能試受かったら再発し、再び治すという繰り返しだったという。
レースも脚元がパンクするのをを控えるために全力を出さずに走っていた。
厩舎も堅田厩舎から山岡恒男厩舎、松下博昭厩舎と度々変わって行った。
ようやく症状が安定してきた99年、ナムラコクオーは99年2月1日 高知8レースサラA2戦で1年7ヵ月半ぶりの勝利を挙げると、1戦して半年間休養に入り、C2クラスの降級し、Cクラスで5連勝を挙げ、一気に重賞挑戦となった。


99年11月21日 高知9レース スポーツニッポン杯第3回黒潮スプリンターズカップ
ダート1400メートルの重賞に12頭が集まった。この中には中央でオープンで戦った事もあるオースミレパードもその場にいた。
高知に移ってから重賞初挑戦となるナムラコクオーは2番人気、3.4倍の支持を受けた。
ゲートが開き、ナムラコクオーはスタンド前で先手を奪い、1馬身ほどのリードでレースを進める。
3コーナーを通過した所で、ナムラコクオーはリードを広げ、1馬身半に広げると、夕陽を浴びて4コーナーから直線に入ると、後続にさらに差を広げ、橋口アナの驚きの実況とともに5馬身のリードを広げ、プロキオンステークス以来、約3年7ヶ月ぶり、高知に移ってから約3年、ナムラコクオーは新天地で見事に復活を遂げた。
ゴールする前から鞍上の中越豊光騎手の手は上がっていた。高知に移ってきてから様々な困難に打ち勝ってきた愛馬の重賞制覇に感動したのだろう。
この勝利は関係者だけではなく、全国の競馬ファンをも感動させる事となった。
この時、ナムラコクオーは転入時より20キロ近く体重が増え、500キロを超え、505キロになっていた。
しかし、奇跡の復活後、ナムラコクオー高知県知事賞競走中止し、またしても長期休養へと入り、さらに甲田守厩舎に移籍し、10ヶ月ぶりのレースも競走中止し、2戦連続で競走中止し、再び長期休養と入った。



2002年8月12日 高知5レース サラE7戦。
田中守厩舎に移ったナムラコクオーはまたしても不死鳥の如く戦線復帰を果たした。
大勢のファンが待ちに待ったナムラコクオーの復帰戦。
断然人気に支持されたナムラコクオーは13キロ増の525キロでの出走となったが、スタートから先手を奪うと、持ったまま直線でさらにリードを広げ、5馬身のリードで見事に復帰戦を飾った。
その後は7連勝をし、ギャラントホース特別出走時には主催者からナムラコクオーのグッズが作られ、翌年、ナムラコクオーは統一GⅢ黒船賞に出走。
12歳のナムラコクオーは中央馬相手にノボジャックに次いで2番手からレースを進めるも、最後は9着と敗れた。
しかし、単勝は4番人気に支持され、地元だけではなく、中央競馬ファンからも注目を集めていた。
黒船賞後も7連勝し、この中には3年9ヶ月ぶりの重賞制覇となった夏の大一番03建依別賞も含まれている。
単勝1.0倍と単勝元返しの断然支持になったナムラコクオーはマチカネジュウベエに次いで外から2番手からレースを進め、3コーナー前でマチカネジュウベエを交わして先頭に立つと、残り100近くで突き放し、見事3年9ヶ月ぶりの重賞制覇でまたしてもナムラコクオーは伝説を一つ作った。
7連勝後、JRA交流の桂浜盃に出るが、ベストライナーの3着。続く2003年9月27日のサラAB混合戦で勝ち馬のエイシンナポレオンから4.8秒離されてのシンガリ負け。これがナムラコクオー最後のレースとなった。
その後、再び脚部不安に襲われ、復帰を目指していたが、再びレースで走る事なく、2005年11月23日に余生を送る土佐黒潮牧場に移動。そして今日、2005年12月6日、高知の不死鳥は12年2ヶ月半に及ぶほど長く、波乱万丈の競走馬生活にピリオドを打った。


12年2ヶ月にも競走馬生活、12年2ヶ月という事を言葉で言うのは簡単だが、その歳月はかなり長く感じる。
この間、同期だったナリタブライアンは天へ召され、その孫達もデビュー。そして引退した今年、ディープインパクトという新たな3冠馬が誕生し、ナムラコクオーの現役生活中に2頭の3冠馬が誕生し、4戦目となったもちの木賞を勝ったシスターソノは01JBCクラシック(統一GI)、01川崎記念(統一GI)などを勝ったレギュラーメンバーを産み、そのレギュラーメンバー種牡馬となった。また、5戦目のレースで3着だったガイドブックは02名古屋グランプリ(統一GⅡ)を制したアッパレアッパレを、デビュー戦、2戦目と一緒に走ったマルカムーンライトは障害オープンで活躍したワンダーフルフィルを輩出した。
内閣総理大臣細川護熙から羽田孜村山富市橋本龍太郎小渕恵三森喜朗小泉純一郎と6人も変わった。
ナムラコクオーがデビューした時に生まれた子も今では小学6年生と思春期に入る頃になった。
今の競馬ファンの人でも、コクオーがデビューした時にはまだ未成年、学生だった人も多いのではないかと思います。
ここを見ている人の中にはまだかなり小さかった人もいるかと思います。
ナムラコクオーが現役生活を続けている間に阪神大震災地下鉄サリン事件、神戸児童連続殺傷事件、池田小学校児童殺傷事件、アメリ同時多発テロ北朝鮮拉致被害者帰国、イラク戦争など目まぐるしく世界は激動して行った。
そして、世紀も20世紀から21世紀となった。
そう考えると、激動の時代をナムラコクオーは駆け抜けて行ったような感じがします。
脚部に重い爆弾を抱えながらも、15歳まで現役で走り、度重なる故障で長期休養を繰り返しながらも、その度に不死鳥の如く蘇り、ファンを感動させていったナムラコクオー
今後は土佐黒潮牧場で余生を送る予定となっています。
本当に長い間お疲れ様でした。

ナムラコクオー
1991年5月6日 門別・伊藤真継生産
牡・黒鹿毛

父:キンググローリアス 母:ケイジョイナー 母の父:サドンソー
所属厩舎:JRA栗東野村彰彦→高知・堅田忠雄→高知・山岡恒一→高知・松下博昭→高知・甲田守→高知・田中守
主戦騎手:上村洋行JRA)、中越豊光(高知)
通算成績:47戦27勝(うち地方33戦21勝)
重賞勝ち:93ラジオたんぱ杯3歳ステークス(GⅢ)、94シンザン記念(GⅢ)、94NHK杯(GⅡ)、96プロキオンステークス(GⅢ)、99黒潮スプリンターズカップ、03建依別賞
収得賞金:2億2086万円(うち中央2億580万円、地方1197万5000円、付加賞金308万5000円)
現役生活:1993年9月19日〜2005年12月06日(ラストランは2003年9月27日)

*1:この時、屈腱炎の症状について、医師の誤診説がある。